for anna
夕焼けの中で、彼女は
前編
俺の中で、彼女というと、夕焼けという印象が強かったはずだったんだ。
大きな欠伸をして廊下を歩いていたら、年配の教師に注意をされた。俺は頭を下げるだけで、その場をやり過ぎた。影ではきっと、学生気分のままで教師をするなんて、と小言を言われているのだろうと思う。そうだろうな、たった一年前までは大学生だった。大学生というと、人生で一番華々しい年代だ。二十歳を超えると、責任は生まれるものの、代わりに自由を得て飛び立てる年代。免許を取って、車を乗り回して、何時に帰っても平気で、別に大学を遅刻しても何も言われない、だけれどもその代わり自分の身にしっぺ返しが返ってくる、自由と責任の年代。
――たったの一年。
運良く取れた教員免許と運良く空いていた教員の席。たったの一年で、俺は学生側ではなく、学生を指導する教師側になってしまうとは――、世も末だ、と思ったりもする。
もう一度欠伸をした。次は女生徒がすれ違っていった。全く俺のことなど無視だった。その方が気楽だが。
廊下を進んでいくと、放課後の生徒が集まって騒がしい教室棟を離れ、渡り廊下へ差し掛かる。そのまま階段を上って、本棟の四階へと向かった。
本棟は教室棟とは空気が違う。ざわめいた喧騒が遠ざかり、俺のいる側とは反対にある音楽室から吹奏学部の様々な楽器の練習音が混ざり合う。しかし、それも遠くにあるように聞こえるだけだ。今、俺の歩いている廊下は、まるで学校とは切り離されたような、生活感のない空間だった。
目的地はすぐそこだった。廊下の突き当たりにある生物室ではない。その手前にある、美術室――扉を開けると、案の定、部屋の中にいるのは、大沢一人だけだった。扉の開く音に、外を眺めていた大沢が振り返る。俺は苦笑して肩をすくめた。
「今日も一人か」
大沢は首を縦に振った。そしてまた窓の外に目を向ける。彼女の前には大きなキャンバスがあった。その横には無造作に置かれた絵の具。不思議な匂いがして、俺はあまり触りたくないチューブだ。チューブの蓋はいくつか開いていて、すでにパレットに色が落ちている。まだ混ざってない原色の色だ。橙色が広い面積を占めていて、他に白や青や黒がある。これをどう混ぜたらどんな色になるのか、俺にはよく解らないが。しかし大沢はそこまでの準備をしていながら、一切、筆を汚していない。ただただ、彼女は窓の外を眺めるだけなのだ。
この学校に配属になって、美術部担当教諭に回された。前任者が定年でやめたからとのことだったが、俺には一切美術の知識などなかった。そもそも俺は数学担当の教師である。しかし、ただ、ごくたまに美術部の様子を伺うだけでいいと聞いたので、異論もなく了承した。その美術部員名簿にはかなりの数の名前が書いてある。四十人以上はいたのだったか。それはこの学校が、生徒全員部活動参加を謳っているからであって、部活動を行いたくない生徒がほとんど美術部かパソコン部に入るからだった。おかげで、まともに名前を覚えている部員が大沢一人という有様である。
大沢の隣まで歩いていって、並んで窓の外を眺める。本棟は運動場に面していて、窓から覗けば運動部の活動が一望できる。野球部、サッカー部、ハンドボール部、テニス部、プールには水泳部の姿も見える。大沢はただただじっとこの部活動を観察しているようだった。俺はそっと運動場から視線を外して、大沢の体の横に立つキャンバスを見た。キャンバスには既に地肌の部分はない。おおまかな概観と色が載せられている。それは、眩いぐらいの夕日が描かれていた。――いまだ中途半端に。
美術部に配属になっても、俺はなかなか放課後の美術室に足を向けなかった。というのも、慣れない教師という仕事を片付けるということに精一杯で、そんな帰宅部まがいの部活に顔を出す暇などなかったのである。そんなある日、生徒指導教諭に俺はちくりと釘を刺されたのだった。――美術部に、帰宅時間になっても帰らない生徒がいる。それを聞いた次の日の放課後、小テストの採点を終えた俺は慌てて美術室に向かった。二階にある職員室から俺は四階の美術室へと駆け上がっていった。生徒指導教諭の顔が頭から離れない。新人ゆえ、失態など犯さないようにしようと気を配っていた矢先だった。部活のことなど、業務から全く外していたのだ。他を完璧にしようとするあまりに。
その勢いがそのまま扉を開ける力となって空回った。引き戸は勢い余って、壁に衝突すると勢い弱めて戻ってきた。当然、衝突音は大きい。静けさに包まれていた本棟四階に響くようだった。俺は中腰になって、肩で息をして扉の端に手をかけた。美術室の中にいたのは、長い黒髪を背中に流した少女一人だった。キャンバスを置いて。窓に体を向けて。パレットには、何色かの原色の絵の具。俺の方を目を丸くして見ていた。
それが大沢という生徒だった。俺の知る、ただ一人の美術部員だ。
息をある程度整えた俺は、大沢の元に歩いていった。すると彼女はくすりと笑った。あまりに突然のことだったので、俺は思わずむっとして顔に出してしまった。
「先生が、美術担当になったの?」
彼女は俺の表情など気にもせずに尋ねてきた。
「他の美術部員は……いないのか?」
「帰宅部同然って聞いてるんじゃないの?」
聞いていた。しかし、まさか、一人で絵を描いているなどとは思いもしなかった。普通の過疎化した文化部というものは、友達たちとつるんで部室という場所で喋っている女子高生というイメージだったのだ。こんな人気もないところで、という思いが頭の中をよぎらずにはいられなかった。
「額田先生に怒られたんだろ? 一人だからって、帰宅時間を破っていいってことじゃない」
「ああ、それで来たのか……」
彼女のそれはまるで独り言のように聞こえた。
そうして彼女はパレットを取り上げた。年季の入ったパレットは、白いのだが部分的にひび割れた汚れが走っていた。そしてその上にさらに走る絵の具の色。暖色と寒色が載っている。
「何だと思う?」
彼女が何を尋ねているのか、俺には解らなかった。答えずにいるうちに、大沢は一人で解答を喋っていた。
「夕日を描くの」
夕日――暖色と、寒色。気づいた。載っている色は、夕日の色と、日の沈んだ暗い空の色だった。混ぜれば、それはきっと美しく発色するのだろうと思われる絵の具の色――。
「下校時間を過ぎなきゃ夕日って描けないのよ。今度の秋の個展に出そうと思ってるの」
窓に歩いていって、窓の下を眺めながら彼女は続けた。
「だから、先生、お願い。先生と一緒なら大丈夫?」
窓の外の太陽はいまだ沈む気配がない。まだ透明感の残る青空を見つめて、彼女は俺にそう頼んだ。俺と一緒なら大丈夫なんて道理が、学校の規則に通るとは思えなかったが、しかし俺にはある興味が湧いていた。それと引き換えに、毎日ではないものの週に何回かは夕日の時間まで残っていいと約束した。
大沢に、その場で絵を描いてもらったのだった。
しかし俺には絵心がない。大沢の絵はあまりに抽象的でよく解らなかった。赤い色や黄色い色が渦巻いている。大沢はそれを喜びだと表現した。渦の背景には黒色も配置されているのだが。思わず夕日をこんな風に描くのか、と尋ねた。
「ううん、それは見たとおりに描く」
俺はほっと胸をなでおろし、同時にもらう予定の抽象画に目を向けた。この抽象画と引き換えに下校時刻を破ることを了承するというのは、あまりに釣り合いが取れていないように思えたが、夕日の絵をしっかり描いてもらうということでそれはチャラにしようと感じた。
仕方なく持って帰った抽象画は、母親に見せたら生徒に初めてもらったものだしなどと言われ、空いている部屋の壁に飾られた。もちろん今もずっとある。空いている部屋というのがミソなのだろうな、と今では母親の判断をそう思う。
四月には真っ白だったキャンバスも五月になれば色彩が増えていった。夕暮れに沈んでいく校舎と街並みと、眩いほどの夕日を描く大沢のキャンバスは、一般的に上手いのか下手なのかは解らなかったが、俺にとっては上手かった。しかし、夏至に近づくにつれ、夕暮れまでの放課後の時間は長くなっていく。俺はある日提案をした。
「写真に撮れば、いいんじゃないのか? それを映せば……」
言葉は途中で止まった。大沢は俺を睨み上げていた。軽蔑の眼差しとはこういうものだ、と二十三年生きてきてようやく知る。
大沢は何も答えなかったが、それが答えだと俺はそれ以上何も言いはしなかった。ただただ伸びていく放課後を見守る他なかった。俺も夕焼けの時間に美術室を覗けばいいだけだとその頃はその程度しか大沢の様子を伺いに行かなかった。
少し早めに美術室に向かったときだ。夕暮れにはまだ早い。美術室の扉を開けると、大沢はキャンバスの前ではなくやはり窓の向こうに目を向けていた。いつものことだった。大沢は窓かキャンバスか、いつもそのどちらかに体を傾けている。少し美術室に足を踏み入れると、もう既に足音で俺を判別することができるようになっていた大沢が口を開いた。
「先生って、高校のとき、彼女いた?」
「は?」
あまりに唐突な問いに、俺の声が滑った。大沢はしかし振り返りもしない。俺は答えることもなく、大沢のところに歩いていった。正直なところを言えば、いなかった。俺の高校時代など、勉強に明け暮れた毎日で大した思い出もないというところが本音だった。
大沢のところにたどり着く前に、大沢が再度口を開いた。
「好きな人が自分の事を好きになるなんて、奇跡みたい」
大沢の肩越しに窓の外を覗き込む。いつもどおり運動部が活動をしていた。しかし、いつもどおりではない風景もある。野球部の高田が制服の女子と芝生に座って会話しているのだ。野球部は休憩中だからそれでだろう。高田と大沢はそういえばクラスで隣の席だったなと思い出す。気づいたのはそれぐらいだ。
俺はそれから大沢の横顔を見た。何故、大沢が、毎日夕方まで学校に残っているのか。何故、大沢が、いつも窓の外を見ているのか。思えば、窓の外といっても、大沢の体はいつだって野球部の方に傾いていた。
突風が吹いた。突風はカーテンの中に包まれ、それだけでは勢い止まらずカーテンを膨らみ上げた。風が引いてカーテンが元に戻っていく。大沢の体を包むように。
カーテンに隠れる瞬間の大沢の顔を見た。熱っぽい眼差しで、大沢はじっと窓の外を見ている。明らかに恋をしている眼差しだった。
大沢をシャットダウンするかのようにカーテンが隠す。
奇跡みたい。大沢の声が頭の中に木霊する。
それから俺は大沢が窓の外ではなくて高田を見ているということに気づいたのだ。夕日の時間になるまで飽きもしないで。そして今日もまた同じように。
大沢は俺の方を見ようともしない。俺はため息をついてキャンバスを見た。最近は進行具合が遅いように思える。夕日はキャンバスの真ん中で滲んだまま、はっきりとした輪郭を描かない。投げやりに椅子に座ると、音が立ったせいか大沢がようやく俺の方を見た。
「何?」
「先生、仕事終わったの?」
「いや……気晴らしだよ」
と煙草を吸おうと胸ポケットから出したら、すっと大沢の手が伸びてきた。既に絵の具に触れていたのだろうか、大沢の指に色がついている。いや、それだけではない。大沢の指先には淡いピンク色が落ちていた。それに気を取られていると、さっと大沢は煙草を奪った。
「煙草を吸う男の人って嫌いなの」
俺は肩をすくめただけだった。いっぱしの女みたいなことを言う。大沢は煙草をくるくる持ちながら、何か興味深そうに眺めている。やがてそれに飽きたようで俺に返してきた。俺は無言で煙草をまた胸ポケットに戻した。吸えなくなったので何か手持ち無沙汰な心地になる。何を喋ればいいのかも思いつかず、意味もなく立ち上がった。
「あ、高田、打った」
大沢よりも頭一つ分背が高いおかげで簡単に運動場が見渡せる。え、と大沢は慌てた様子で窓にしがみついた。しかし、もう高田はバッターボックスから外れている頃だった。大沢が頬を膨らませながら俺の方を振り返る。
「先生のせいで見えなかった」
「何で俺のせい?」
「先生が来たからよ!」
俺はふっと笑った。そこがまた大沢の勘に触ったらしい。彼女は俺に向かって背伸びをして、顔を赤く染める。
「何を笑ってるの!」
「いや……、告白でもすればいいのに」
「そんなことできるわけないじゃない」
大沢は再び窓の外を眺め始めた。ちらりと大沢の視線の先を見ると、野球部の活動している場所の裏側にあるフェンスの向こうに制服姿の女子が見えた。以前にも高田と一緒にいた生徒だ。それに休み時間にもよく一緒にいる姿を見かけている。教師側の視線から見ても、明らかに二人は付き合っているのだろう。
「そんなことできたら……」
大沢は呟く。その言葉の先はなかった。だが、想像は容易かった。
そんなことができたら、俺もここに来ることはなかったのだろう。本当に想像は容易い。
ある日、再び俺は生徒指導の教諭に呼び止められた。彼の顔を見た瞬間に、大沢のことが頭に浮かんだ。今のところ順調に教師という仕事をこないしている俺には、問題というのは大沢ぐらいしかありえなかった。当然大沢の帰宅時間についての再度の注意だった。
「私がみてるんですが、それでも……」
生徒指導の額田先生は眉間に皺を寄せた。
「別にね、校舎にいるときはいいんですよ。誰かしら教師がいますからね。でもあんた、帰宅途中はどう説明するんですか。帰宅途中に犯罪者に会ったら? どうしてこんな時間に帰宅させたのかという問題に結びつくでしょう。どうして教師が遅くまで学校に残っていいなんて指示を与えれるんですか。時代がね、時代なんですよ」
額田先生の言うことはもっともだった。俺がそのことを失念していた方が教師として問題だ。憂鬱ではあったが、教師として俺は大沢にそのことを告げることにした。告げた後の大沢の顔は一瞬ではあったが、ひどく悲しげな表情をしてみせた。
「絵が。描けないわ……」
大沢の視線の先にあるキャンバスを俺は見た。夕日は色濃くキャンバスの上に載っている。もう大半が完成しているように思えた。俺だったら、これで完成だといっても別におかしくはないだろう、それぐらい緻密に色が塗られている。しかし大沢が、涙ぐみそうになって俯いている。まだ時間がかかるのだ。秋の個展に出すと大沢は言っていた。今はまだ七月。梅雨も過ぎ、夕日の見れる時間が増え、今から完成に向けて仕上げていくという様相なのだろう。
「……そういえば、これは一体いつの時期の絵なんだ?」
俺の突然の問いに大沢が、え、と短く呟いた。少し慌てたようだったが、すぐに彼女は平静を取り繕って答えた。
「夏。完成が、夏の予定だったから」
「夏の夕日か」
正直、春の夕日も夏の夕日も俺にはどんな違いがあるのか解らない。描かれている木が緑に生い茂っているという特徴があるぐらいだろうか。夕日に翳っているその姿はあまりに見事だ。
「あとどれぐらいで完成する?」
「え?」
「……あんまり長いとな、俺も目をつぶってられないけど……、夏休みまであと少しだろ? 少しぐらいだったら、いいよ。俺が送っていけばいいんだ。それなら安全だろ?」
大沢は一瞬呆けた顔を見せたが、みるみるうちに頬が上気し、破顔してみせた。
「ありがとう……!」
大沢の顔は夕日にまみれていた。とても綺麗に、まみれていた。
その日から、俺は毎日のように大沢を車に乗せて送っていったのだった。
大沢を送る時間はいつも暗くなっていた。人目につくこともなかったのだと思う。大沢は助手席で笑いながら、よく「ナイショだね」と言っていた。知り合いが通りかかるときには、無理があるのに体を伏せて、隠れるようにしていた。悪いことなど何もしていないのに、大沢は俺に迷惑がかかると思っていたようだ。
俺の車の中は、俺の好きなジャズがいつもかかっている。大沢はそれを大人だねと言った。ジャズを聴くからといって必ずしも大人ではないとは思うが、確かに大沢に比べれば俺には二十三歳の教師で大人という事実が横たわっていた。六歳しか変わらないが、その六年の人生の長さというものは十代と比すれば重みのあるものだろう。だからいつもその言葉には否定はしない。
「ジャズって全部同じに聴こえる」
「そんなことない。よく聴いてごらん。アルバム、貸そうか?」
「うん。貸して」
車に乗っていると普段学校ではしない会話をよくするようになった。といってもそれはとても他愛のない会話だ。他愛のない会話というのは、他者とのかかわりにおいてとても重要なものだと俺は認識している。他愛のない会話もできない関係は、まだ何の関係も生まれていないのではないだろうか。
しかし、元から大沢とは教師と生徒という関係が生まれていた。
対向車がハイビームで俺たちの乗る車を照らしていた。眩しくて目を細めた。
新たに生まれた関係などあるのか。いや、ないだろう。どこまでいっても大沢は生徒だ。
気づけば、大沢はジャズを口ずさめるようになっている。
この高校は試験期間の間は部活をしてはいけないことになっている。一応は進学校という名で通っているからだ。運動よりも勉学を重視する学校によくあることだ。
期末試験の期間となり、生徒たちは掲示板に貼られた試験時間割表を見てため息をつき、その瞬間から学校の中の空気が変わった。数学2とリーダーの試験日が一緒だったことに嘆いた生徒たちは、いきなり真面目な生徒に生まれ変わって、休み時間でも勉強している生徒が目立つようになった。放課後も図書室で勉強する生徒の数が増え、代わりにグラウンドを走る生徒はいなくなり、外から聞こえる様々な部活の音は一切聞こえなくなった。静かな放課後というのは何だか落ち着かないもので、俺は美術室の窓から時折グラウンドを見下ろしてみたりもした。高田の姿は一切見当たらなかった。窓を背にして振り返っても、美術室の中とて俺以外の人間は誰もいなかった。
ため息をついた。自分の行動に対して。
担当の試験問題は既に作成を終えていた。生徒から提出された小テストの採点も終えている。まだ担任を受け持っていない新米の俺には、今日やるべき仕事は残っていなかった。早く帰るのもいいだろうと思い、職員室に戻ろうと足を動かしたときに、美術室の扉が開いた。
放課後に美術室に来る人間は限られている。当然、大沢だった。
試験期間であるにも関わらず俺がここにいたことに対して、大沢は少しばかり目を大きく見開いたが、すぐに細めた。笑ったのだった。そして俺の元に歩いてきた。
「先生、どうしたの? 今日は、部活はないよ」
ああ、と呻いた。それから続けて、
「大沢もね。どうしたの? 今日は部活ないから、高田もいないぞ」
「高田じゃない、先生を探していたの」
「俺?」
予想もしない回答に少し面食らった。俺の様子など気にも留めずに、大沢は続けた。
「数学で、解らないところがあって……、教えてもらおうかと思って」
大沢は鞄の中から数学の問題集を出してそれで口元を隠すと、俺を上目遣いで見た。意外と男に甘えるということを本能で知ってるのだな、と思った。手を差し出すと、大沢は笑みを浮かべて、両手で俺に問題集を差し出した。解らないと言った問題は、ページの角が折られていてすぐに解った。三角関数の問題だった。椅子を引いて座ると、俺はじっと問題を読む。大沢もその前に座って、両肘をついて頬杖を取った。考えていたが、大沢の視線がちらついてうまく集中できない。しかし、それほど難しい問題でもなかったので解くのにそこまでの時間を要しなかった。大沢がこんなに俺を見ていなければもっと早く解けただろう。俺の解答を見ても大沢にはいまいちぴんとこなかったようで、俺は一から説明せねばならなかった。ようやくこの問題の意味を咀嚼したらしく、一人で何回も頷いた。それからため息をついて俺に尋ねてきた。
「先生は数学、好き?」
「じゃなかったら数学教師なんてできなくないか?」
「どうして?」
「大沢は数学が嫌いか?」
「嫌いよ。解らないもの。難しいんだもの」
「俺には美術の方が難しいな」
「そう? 簡単よ。ああ。早く、絵が描きたい……試験なんて早く終わってしまえばいいのに」
そうだな、と俺は目を伏せた。
「高田も見れないしね」
「さっきから高田のことばかり言うのね」
見上げると大沢の視線には幾ばくか俺を責めたてるような気配がこもっていた。何故だろうと俺は何も口を開かずにただ大沢の視線を受け止めた。何故だろう。咄嗟に思った疑問だったが、それは俺自身どのことに対しての疑問なのか解っていなかった。
二人とも喋らないと、部活のない試験期間は校舎全体がしんとして、静寂の中にくるまれたようだった。それでも大沢は俺を見続けていた。何だかそれはねっとりとした視線で俺の体に絡みつくような心地がした。それはまるで女の視線だった。大学時代に付き合っていた女の事を思い出して、俺は内心苦笑した。彼女のことを久しぶりに思い出した。
その夜、何気なしに俺は元彼女にメールを打った。久しぶり、元気? と。返事はしばらく来ず、十二時前に風呂から上がって携帯電話が点滅していることに気づいてようやくメールを打ったことを思い出したという程度だ。返事の内容はそっけなく、俺に惚れきっていた頃とは全く別人のような中身だった。女というものはこういうものなのだろうな、と思いながら中身のないメールを続けた。
試験期間が終わった日は、校舎全体が色めき立っているようだった。午前中で試験が終わると、開放された生徒たちが弾けるように教室から出て行った。一つの教室で試験監督をしていた俺は、何度か彼らに注意をして、それでも嬉しそうな彼らの顔を見て何故かにやけてしまうのを止められず、逆に生徒に注意されるのであった。
職員室に戻ろうと廊下を歩いていると、高田とその友人と思しき生徒が俺の隣をすり抜けていった。俺はため息をついて、高田の名前を呼んだ。高田が振り返ると、間延びした口調で俺は注意した。
「走るの禁止ー」
高田はへへと笑いながら俺の方にやってきた。
「えー、先生が注意すんのー? 先生だって走ってただろー?」
「走ってたけどな。あ、高田、お前今回の数学、どうしたんだ? 勉強してんのか、勉強。彼女ばっかかまってるんじゃないぞ」
それだけ言って、教室棟から本棟に繋がる渡り廊下へと向かった。何故か俺の後をついてきていた高田が俺の隣に並ぶ。持っていた出席簿を頭の上にこつんと載せて、高田の方をちらりと見た。
「俺、彼女と別れたんすけど」
「あ、……そう」
別に聞いたわけでもないのに、高田は言う。瞬時に俺の頭の中に大沢の顔が広がった。目をぎゅっと閉じると霧散するように大沢の顔は消えた。消した。
「先生、俺、聞きたいことあるんすけどー」
「数学?」
「先生、童貞失ったのいつっすかー」
「教えません。それ、こないだ、相田からも聞かれたぞ。俺の童貞年齢賭けてるのか、お前ら。俺から一体何を知りたい」
「わはははははは」
高田は何やら馬鹿笑いをして、先ほどから歩いてきた方向、教室棟に走って戻っていった。走るなと注意した矢先だというのにだ。ため息をつく。どうもまだあまり教師だと思われていない節がある。何を考えているのだかよく解らない。俺もそうだったのかもしれないが。
十七歳、か。
口の中で呟く。十七歳。六年前。十七歳。たった、六年前。
たったの六年で全く違う生き物になってしまったようだ。十七歳という存在は遠すぎる。それほどに大人になったのだとは思わないが、……ただ、遠すぎるというだけだ。
夕方になって美術室を覗いてみたが、大沢の姿はなかった。恐らく、試験が終わってから夕方まで待つ時間が長すぎたため、家に帰ったのだろう。大沢のいない美術室に入る。夜に近づいて傾いた日差しが長く長く美術室に横たわっている。窓に近づき、運動場を見下ろすと、運動部員たちが揃って片づけを始めていた。高田はトンボを引きずって、隣の野球部員と笑いながら走っていた。その若々しい姿と、自分の伸びた影を見比べる。影なのに、どこかそれは持ち主と同じようにくたびれている。
窓が閉まっていたため、美術室の中は熱気でこもっていた。窓を開けると、蝉の忙しない鳴き声が直接耳に飛び込んできて余計に熱気を感じた。風はもう熱風と呼んでもいい。日中よりは幾分その温度は緩んだようだったが。
夕焼けが近づいてきた。
空の色がゆっくりと暗さを増していく。
大沢の描いている絵の風景に近づいてきた。
そろそろ、大沢の絵は仕上がる頃だ。そうしたらどうなるのだろうか。少なくとも、夕焼けの時間までこの美術室にいる必要はない。
そんなことを考えていた自分が嫌になる。沈みかけた太陽から視線を外して、運動場を見下ろすと、あっという間に運動部員たちは数を失い、もう解散していた。何十人もの生徒が一気に校門へ向かっていく。自転車を二台並べて走る姿。駅まで歩いていく体の姿。友人同士がほとんどだが、中には恋人らしく二人肩を並べていく男女の姿もあった。二人乗りをしようとして生徒指導の教諭に怒られているような生徒もいた。
(奇跡みたい)
それを見ていたら、なんだか大沢の言葉が頭の中をよぎる。とても唐突に。
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